東京高等裁判所 昭和34年(う)1069号 判決 1959年8月15日
控訴人 被告人 高橋健児
弁護人 金原藤一 外一名
検察官 佐々木衷
主文
本件控訴を棄却する。
当審の未決勾留日数中五十日を原判決の懲役刑に算入する。
理由
控訴の趣意第一点について
記録を調査するに、原判決が原判示第二事実の認定に供した各証拠によれば、被告人が鶴岡光義から買い受けた原判示第二事実のタイヤを装備した自動車は、東京都墨田区亀沢町二丁目二十一番吉原正一の所有であり、昭和三十三年十一月八日夜から翌九日朝までの間に、何人かによつて窃取されたもので、その窃盗犯人が同月十月ころ、右自動車が故障のため操縦ができなくなつたので、千葉県印旛郡山田台曲の手地先に置き去つたものであつて、鶴岡光義はそれが盗賍品であることを知らず、窃盗の意思をもつて同月十五日ころ右自動車からタイヤ四本を取り外し、これを被告人に売却したのであるが、被告人は、鶴岡が右のように自動車からほしいままに取り外したタイヤであることを十分知りながら、これを代金九千円で買い受けたものであることを認めることができる。右事実によれば本件タイヤは、所有者吉原正一が一旦前記窃盗犯人によりその占有を奪取されたが犯人がこれを置き去つたため、結局吉原正一の意思に基かないでその占有を離れ、しかも鶴岡がタイヤを取り外した当時はこれが何人の占有にも属さなかつたのであるから、刑法第二百五十四条のいわゆる占有を離れた物に該当するものというべく、従つて鶴岡については同法条の横領罪が成立し、同人が不法に取得した物をその情を知りながら買い受けた被告人の所為は、賍物故買の罪に該当すること明白といわなければならない。論旨に指摘する昭和二十三年十二月二十四日の最高裁判所判例は、本件と同趣旨の事案に関するものであり、まさに本件について適切な判例と解すべきである。それ故原判決には所論のような法令の適用を誤つた違法はなく、論旨は理由ないものである。
(その他の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 中西要一 判事 久永正勝 判事 河本文夫)
弁護人金原藤一外一名の控訴趣意
第一点原判決は法令の適用を誤り、しかも右は判決に影響を及ぼすべきものである。判示第二の事実につき原裁判所は賍物故買罪の成立を認め有罪判決を下したのであるが、右事実は左記理由により罪とならないものと信ずるので須く原判決を破棄せられ右事実については無罪の判決をせられたい。
一、原判示第二の事実は被告人が鶴岡光義からタイヤ四本を賍物たるの情を知りながら故買したものと認定したのであるが、賍物罪における賍物とは財産罪たる犯罪行為により不法に領得された財物で被害者が法律上それを追求することのできるものを指し、従つて本件タイヤが賍物であるか否か及び賍物罪の本犯者は誰であるのかを検討しなければならない。
二、本件タイヤはこれを装備した自動車と共に吉原正一の所有物であつて、同人が昭和三十三年十一月八日頃自宅前において何者かに窃取されたものであることは吉原正一の被害届謄本(昭和三十三年十一月九日付)及び同人の検察官に対する供述調書により明らかである。即ち本件タイヤが吉原正一の盗賍品であることは疑う余地がない。しかしながら右自動車は同月十日頃より千葉県印旛郡八街町山田台曲の手地先の路傍に放置してあつたもので、右は自動車を窃取した犯人某が家族若しくは共犯者等を乗せて海岸附近を乗り廻した末、電気系統等の故障のため車が動かなくなつたため、やむを得ず右路傍に遺棄し去つたものと推定される。右事実は吉原正一の検察官に対する供述調書(五乃至八項)錦織宗一の検察官に対する供述調書(二項)証人鶴岡光義、同錦織宗一の原審公判廷における各供述により明かであり、殊に十一月十日頃から五、六日間現場に放置してあつたこと、故障のため簡単に修理も出来ない状況であつたこと、自動車が盗品であること等の事実から窃盗犯人某はもはや該自動車を所持使用するの意思を放棄し処置に窮して該路傍に遺棄し去つたものであることが明認されるところである。該自動車にシートを被せてあつたのは右窃盗犯人が該自動車を再び使用しようとの意思を有していたからではなく、むしろ該自動車について警察からの疑惑の目を持たれることを極力引延し自己の犯跡を隠蔽せんとの底意から発したものと認むべきであろう。
三、次に鶴岡光義が本件タイヤを持去つたのは如何なる犯罪を構成するのであろうか。此処において一応考慮せられるのは窃盗と占有離脱物横領である。先ず窃盗について考察するに、窃盗は財物に対する他人の所持を侵害する所謂奪取罪であるから、本件自動車について前記窃盗犯人某の所持が継続していると認めない限り窃盗の成立する余地はない。本件自動車が前項記載のものである限りにおいては鶴岡の所為が窃盗を構成しないことは自明の理というべきであろう。次で占有離脱物横領について審究するに、原審は恐らく本件タイヤを占有離脱物と認定し、鶴岡の所為を占有離脱物横領と認めたものと推察される。占有離脱物とは占有者の意思に基かずしてその占有を離脱し、未だ何人の占有にも属しない物を謂うのであるが、刑法上の占有は直接の所持支配関係を指称するものであるから、本件タイヤについての占有者とは前記窃盗犯人某を指すものと解する外はない。然るときは某は自らの意思に基いて本件タイヤを装置した自動車を遺棄したものであるから、本件タイヤは占有者の意思に基かずして占有を離脱したものでないことは明らかであるが故に、右窃盗犯人某に対する関係において本件タイヤが占有離脱物と解する余地はない。然らば本件タイヤが本来の所有者たる吉原正一に対する関係において占有離脱物とは考えられないであろうか。本件タイヤは正しく吉原にとつては自己の意思に反してその占有を離脱したものであり、現に何人の占有下にもなかつたものである。しかしながら吉原にとつて本件タイヤは某によつて窃取されたものであり窃盗の客体となつたものであるから窃取される瞬間において本件タイヤの占有は某に帰属したものであり、その関係において本件タイヤが占有離脱物でないことは明らかと言うべきである。問題はその後において某の占有を離れたとき吉原に対する関係で新に占有離脱物たるの性質を帯有するに至るか否かと言う点に帰する。しかしながら所有者たる吉原の占有は既に某の手によつてこれを奪われたものであつて、その被害法益擁護のためには、右某に対し窃盗罪を以て臨めば足りるわけである。(尤も某より賍物たるの情を知りながらこれを収受し、運搬し、寄蔵し、故買し牙保したものについては別個の観点より賍物罪の成立するのは勿論である)刑法上の占有が事実上の支配を意味し、窃盗罪においても親族相盗の適用に関し、その被害者を占有者と考える如く(最判、昭和二十四年五月二十一日、刑集三巻、八五八頁)占有離脱物横領においても、その物の直接の占有者について、即ち占有者たる窃盗犯人某との間において鶴岡の所為が犯罪を構成するか否かを論ずれば足り、既に某によつて占有を奪われた吉原正一との間において考慮する必要は毛頭存しないと言うべきである。以上の如く考察し来るならば鶴岡光義の本件タイヤ取得の所為は別段の犯罪(殊に占有離脱物横領)を構成しないものと断定せねばならない。因に最判昭和二十三年十二月二十四日(刑集二巻一四号一八七七頁)広島高等判昭和二十九年十月二十七日(刑特報一巻八号二七五頁)は、いずれも盗品について窃盗犯人が自己の支配外の場所に隠匿し置去つた物を拾得した行為につき占有離脱物横領を認めているが、右は窃盗犯人が盗品を遺棄したものではなく、後刻機を見て自己の支配下に回復しようとの意図の下に置去つたり、隠匿した事案であるから本件の如き窃盗犯人が遺棄し去つた物に対する場合と本質的に異るものであることを附言する。
四、賍物罪を設ける所以のものは、賍物犯が、本犯の得た利益に与つて或はその利用処分に関与して、窃盗等の財産罪を誘発助成せしめる危険を伴うことから更に被害者の追求回復を困難ならしめることを防遏せんとするものである。即ち賍物犯は本来当然本犯より直接に若くは本犯から賍物を収受、運搬、寄蔵、故買、牙保をなした他の賍物犯より賍物の収受等をなす場合を想定したものであり、本犯とは直接にも間接にも関係のない者がたまたま盗品を入手した場合の如きを含めたものではない。何故ならば、このような者は本犯と無関係であるが故に、本犯の犯罪を助成誘発せしめるが如き事後従犯的性格を全く保有しないからである。今本件につきこれを見るに、被告人は窃盗本犯たる某とは何等の関係もなく単に鶴岡光義と関係があるに止る。而して鶴岡にして前述の如く何等の罪を構成しないものとすれば、被告人の所為が賍物罪を構成しないことは明かと謂うべきである。被告人の買受けたタイヤが賍物であるか否か、又被告人の所為が賍物故買となるか否かの点は被告人と鶴岡光義との間において論究せらるべく、所有者たる吉原正一との間において考察せらるべきではないからである。
かるが故に被告人の原判示第二の所為は罪となり得ないものと信ずる次第であつて、無罪の判決あらんことを期待するものである。
(その他の控訴趣意は省略する。)